先日のブログ、「遊ぶことについて」の続きです。
まず、先週、公園の砂場に行った時のお話から。
私の娘は、砂で熱心にお団子を作って、並べていたのですが、そこに多分一歳半くらいの、まだまだよちよち歩きの女の子がやってきました。
その小さな女の子は、瞳をキラキラさせて、次から次へと、娘が作った砂のお団子を壊し始めました。
その位の年齢だと、自分に砂がかかっても、服が汚れても、まったく気にしないものですよね。
むしろ、砂が自分にかかるのが、楽しそうです。
そして、本当にうれしそうに砂団子をくずして、キャッキャッと声を立てて喜んで笑っていました。
私は、そんな女の子の様子を眺めながら、こう思ったのでした。
本当に、子どもの時は、ただ遊びたいから遊んでいて、ただ楽しいから遊んでいたんだなあ、と。
他に、目的は何もないものなんですよね(笑)。
今日も、「遊び」について考えを巡らせていましたが、ふと、棚にある岡本太郎さんの著作、
『美しく怒れ』(角川Oneテーマ21)を開いたところ、まさに「遊び」について書かれた章がありました。
(以下、「美しく怒れ」より引用)
『幼い子の無限とも思えるエネルギーは、次々と新しいことに熱中して、今までのことを
放り出していく、あの無邪気な自由さからふき出してくるのかもしれない。
これは人間にとって、とても大事な事だと思う。
つまり、“何々のために何かをする”のではなくて、無条件、無償の生命力の輝き。
凝滞(ぎょうたい)なく動きながら、瞬間瞬間、喜びが満ちあふれる生き方だ。』
もしかしたら、子どものように無条件に遊んで、自由に楽しんでいる時に、最もいのちの喜びの濃度が濃いのではないだろうか…と感じました。
そして、最近は「遊び」とか「自由自在」という感覚が、実はおざなりになっていたかも…と自分の身を振り返りました。
もっと生活の中にゆとりを持って、「遊び」や「子供のような無邪気な自由さ」の感覚を取り戻していきたいものだなあ…と思います。